(聞き手)
避難する場所は、ここから近くの高い建物になるのでしょうか。
(大橋様)
そうですね。
震災後は色々な方から、いざという時にはどこに逃げるか決めておくべきだという話が出ました。
道路の向かいに仙台運輸倉庫株式会社さんの倉庫がありますが、そこは、海側、つまり、津波が来る方向へ向かう事になるので、可能なら津波から遠ざかる場所で考えています。
震災時も、そういった
避難場所が、この辺りに確保されていれば良かったのでしょう。
大変だと思いますが、そこについては多賀城市が何か対策を考えていると思います。
この場所から行ける
高台は、文化センターか市役所の方面しかありません。
色々な所に
避難場所を指定してもらっていますが、そのいずれにも遠いので、もう少しここから近い場所に
避難場所を作ってもらえればありがたいです。
(聞き手)
地震が発生した時には、どちらにいらっしゃいましたか。
(大橋様)
発災時はこの事務所にいました。
一度逃げましたが、最初は津波が4メートル程度だという話だったので大丈夫だろうと思っていました。
トラックの運転手が帰って来て、今度はラジオから10メートルになるという予想だと聞いて、これは避難しなければいけないと思いました。他の社員もいたので、「車は駄目だ、走って逃げろ」と言ってほぼ全員で逃げました。
(聞き手)
その時には何人くらいの方が事務所にいましたか。
(大橋様)
25人が出勤していました。
ところが、駅長と常務だけは、見届けると言って残ったのです。
「避難しなければ駄目だ」と説得したのですが、それでも残ると言ったので、しかたなく、23人で逃げました。
携帯電話が繋がらなくなってしまったので、どうなったのかとても心配しました。
私たちは目の前で津波を見て、イオン多賀城さんの前にある線路や鉄塔が呑みこまれる場面も見ました。
他の社員が「ああ、もう終わりだ」と言ってしまうほどの、見るも無残な光景を目の当たりにしました。車も、乗っている人ごと流されて巻き込まれていました。
翌日の朝になっても、水は引きませんでした。昼になって、残った2人の様子を見に行こうと、普段なら15分で済む道のりを2時間近くかけて向かいました。
そうしたところ、なんと2人は無事でした。高い所に避難して事なきを得たそうです。
会社周辺は壊滅状態で、もう立ち直れないのではないかと思ってしまうほどの惨状でした。
カップラーメンが流れ着いていたので、とりあえず、その晩はそれを拾って食べて過ごし、12日は事務所に泊まりました。
さらにその翌日、震災から3日目には、とりあえず一度家に帰ろうという事になり、それぞれに歩いて自宅に一度帰りました。
その後、対策本部を作る事になりました。JR貨物さんも入っているJR東日本のビルの一区画を借りて、電話とパソコンを設置して、
安否確認を始めました。
次の日ようやく、社員も家族も全員無事だったとわかり、これだけでも非常に良かったと思いました。
(聞き手)
経験した事のない揺れだったと思いますが、その時点で津波が来ると予想されていましたか。
(大橋様)
津波は絶対に来ると思っていました。ですが、先ほども言ったように、最初は4メートルくらいだと聞かされたので、ここに居ても大丈夫だと考えてしまいました。
さすがに10メートルと聞いて、ここではまずいと思ったので、すぐに逃げろと避難指示を出しました。
色々な資料を見ると、ここでは7.3メートルくらいの津波高だったようです。
本社は2階にあったので、そこにあった物は比較的無事だったのですが、3台あった
機関車は全て水を被ってしまいました。